無限おむすび


小腹が空いたので作業の合間におむすびを作る。

昼に炊いた米が余っていてよかった。完全に冷え切っていない米はどこかふっくらしていて、米と米の間に若干の隙間があるのでおむすびに適している。

塩むすびでもいいが、冷蔵庫に「昆布ちりめん」があったはず。昆布のうまみとゴマやちりめんの歯ざわり、全体の甘じょっぱい味付けが白米に合う。あっという間に昆布ちりめんむすびの完成である。

うんうん、これこれ、という味。噛めば噛むほどおいしい。

 

何度も買っている昆布ちりめんだが、どこの会社が作っているんだろう。容器の裏側のラベルを見てみる。有限会社何某……九州のほうらしい。

しかし有限会社というのも改めて考えるとよく分からないネーミングである。限りが有ると書いて有限と読むわけだが、そんなことは自明の理だ。諸行無常、生々流転と言うではないか。この世のありとあらゆるものはいずれ形を失っていく。源氏も平氏も滅んだのだ。有限会社のみならず、株式会社だって持分会社だっていつかは無くなってしまう。

そもそも有限会社があるのなら、無限会社があってもいいかもしれない。資金なのか社員なのか社員食堂のお代わり回数なのか、何が無限なのかはともかくとして。

さっき有限は自明の理と書いたばかりのくせに手のひらを反すんじゃないと叱責を受けそうだが、流行りの「無限キャベツ」「無限ピーマン」のようなものだ。なにものも無限であることなどありえないのだが、それをわかった上で「無限」という言葉の力強さ、景気の良さを味わうというのも楽しい。無限キャベツをむさぼりながら、「でも、これだって限りが有るのよね、あーあ」などとぼやいていては面白くないのだ。

 

とはいえ現実には無限会社などというものがないことを考えると、有限会社の「有限」というのは「無限」の対義語ではないらしい。じゃあ、なにが有限なのか。

調べてみるとどうやら、出資者や社員数に制限があることが由来のようだ。「制限が有りますよ」から来る「有限」か。なんだ、そういうことか。名称しか知らずにいたことを思うとなにやら恥ずかしい。

 

無限会社なんてないし、有限会社の「有限」も「無限」に対するものではない。結局この世は有限のみでできているのだなあ。無限とか永遠とか永久と言ったものは人間の想像力が生み出した概念であって、実在はしていないのだ。

それが分かっていても、いっときのファンタジーに浸りたいがために人は「無限キャベツ」と名付けてみたり、「無限に食べられる」と表現してみたりするのだろう。

 

ものごとは常に有限だ。この昆布ちりめんもいつかは食べられなくなってしまう。別に会社が無くならずとも、近所のスーパーが仕入れるのを止めてしまえば一巻の終わりだ。そう思うとゆっくり、しっかりと咀嚼せずにはいられなくなるが、昆布ちりめんむすびは噛めば噛むほどおいしくなっていくのだった。

こういうのを「無限に食べられる」と表現するのが適切と言える。