ひねくれ者のおすすめ論

人と話すとき、映画を話題にするのが嫌いだ。というより……映画だろうが本だろうが、なにかの感想を人に話すこと、おすすめの作品を人に教えること、逆におすすめを教えてもらうこと、そのへんがすべて嫌いだ。

人に好きな作品を貸すのも大嫌いだが、これは書き出すと長くなりそうなのでまた今度にする。

 

私は会話において自己開示ができない。いや、したくない。恥ずかしいのだ。街をブリーフ一枚で闊歩している人がいたらほとんどの人は目を背けるだろうが、私の自己開示、自分語りへの嫌悪感はそれに似ている。見せなくていい部分を人にわざわざ見せつけているようで居たたまれない。

聞き手の相槌がずいぶんやる気のないものになってしまったことにも気づかず、好きな作品について頬を紅潮させて長々語る人間を見ていると「ああはなるまい」と思ってしまう。

そもそも「へー、映画好きなんですね。好きな映画は何ですか?」という質問は、「あなたの好きな映画に本気で興味があります!ぜひとも存分に語ってください!!」という意味ではない。正しくは「この場の雰囲気を壊さない内容で、会話に加わっている全員がタイトルくらいは知っている映画を挙げよ」という意味である。会話の楽しささえ維持できればなんの映画を挙げようが問題にならないのである。むしろ嘘をつくことが積極的に奨励されている場面である。

そこで本当に好きな映画(つまり自分の本心)を打ち明けて差し上げるなんて、ズボンを脱いでブリーフを見せつけるようなものだと思っている。それならばブリーフはしっかり隠したまま、腕時計や帽子をお見せした方がなんぼかマシだ。大して好きではなくとも知名度は確実にありそうな映画を口にするのだ。インナーよりアウターを披露したほうが嫌がられない。

「おすすめの映画教えてください!」も同じことである。人間、案外他人に興味がないものだ。こちらのおすすめの映画を観てみようと本心から思っている人間などいない。誰でも知っていそうなタイトルを口にして茶を濁すに限る。その方が「その映画観たことあります!やっぱりいい作品ですよね!」と話も盛り上がるのだ。

「どうせ相手は観ないんだし、本当におすすめの映画を言ったっていいだろう」と考える人もおられるかもしれないが、知ったこっちゃない映画のタイトルを「おすすめ」と称される方の身にもなって頂きたい。少なくとも「へー、知らない映画です。どんな映画ですか?」などと言わねばらならないし、またほとんどの人は「そうなんですね、面白そう!今度観てみます!」とまで付け加えねばならない。まったく興味もなければ観る気もない映画に対してである。社交辞令は生きるうえで必要だが、わざわざ社交辞令を言わねばならない状況に相手を追い込むのは一種の拷問だ。

だから私は人におすすめの映画を正直に言うような真似はしない。会話の流れに応じて相手におすすめの映画を訊くことはもちろんするが、「面白そう!観てみます!」というのは会話の締めのあいさつでしかない。

 

そもそも私は自分の好きなものを人に言いふらすのが嫌なのだ。人によっては自分の好きなものをぜひ周囲にも知って欲しい、教えたいと思うようなのでこれは性格とか社交性とかの問題だろう。愛着のあるもの――例えば大切にしている人形や、飼っている動物など――を他人に触られても構わないという人、勘弁してくれという人がいるのと同じなのかもしれない。

自分の好きなものは自分の中で大切にしたい。人におすすめなどと言って押し付けるのも申し訳ないし、自分が好きでさえあれば周囲の支持もとくに必要とは感じない。

 

そういうひねくれが芽生えたこととおそらく無関係ではない出来事がいくつかある。私はハチャメチャB級映画が好きで、特に「エージェント・ウルトラ」という映画を気に入っていた。まだここまでひねくれていなかった数年前、当時の知人が「俺B級映画大好きなんだよね」と切り出したのでこのタイトルを口にしたところ、「あー!あれね!俺あの映画大っ嫌い!!」と高らかに宣言されたのである。こちらが好きか嫌いか明示していないにも関わらず。

また別の知人には、サメ映画が好きだと言ったところ「あんなもん観る奴ほんとにいるんだ」と鼻で笑われてしまった。「あんなくだらないもの、時間の無駄じゃない?」と。

そいつらが嫌な奴でさらに好き嫌いが合致しなかっただけと言えばそれだけの話である。しかし私は好きな作品を言うことにとても慎重になった。ものの好き嫌いは当人の感性であるがゆえに人間のコアのようなものだ。好き嫌いの話はとっつきやすく簡単なようでいて、むきだしのコアをガツガツぶつけあうという点で大変危険なものだと気付いたのである。

 

そんなことを言いつつも、こういう場所には自分の好き嫌いや感想を書いて大いに自己開示を楽しめる。ブログはメールでもなければチャットでもなく、ましてや会話でもない。必ずしも相手が想定されず双方向ではないためコミュニケーションとは違う。それが良いのだろう。私が一人で好きに垂れ流しているだけなので特定の話し相手に自分のコアをガツガツぶつけずに済むのだ。ゆえにこのブログでコアをぶつけられたとお思いの場合、あなたがわざわざぶつかりに来ていると考えられる。

 

神の味噌汁

神の味噌汁、という言葉がある。

神のみぞ知る、をもじった言葉としてあまりに有名だが、「神の味噌汁」なる味噌汁はこの世に存在するのだろうか。

神はこの世に存在しないが、味噌汁は紛れもなくこの世のものである。ならばおそらくありはするはずだ。

そして神と付くからにはよほど美味しいに違いない。となれば、神の味噌汁というのは非常に美味しい味噌汁を指す言葉だろう。

 

しかしここで問題なのが、なにを美味しいと感じるかは各人で異なるという点である。私の好きな味噌汁を神の味噌汁に認定しても、それを忌み嫌う人間からすれば邪神の味噌汁に違いない。そもそも、味噌汁自体を憎悪する人間からは味噌汁の修飾語に「神」を使う時点で睨まれることだろう。

分かり合えないというのは当たり前だが、困ったことでもある。

とは言いつつも、神やら信仰やらというのは元来そういうものではなかろうか。なにを神と思い、なにを信じるかは各人で異なるのだ。神がいると考えるかどうかさえ人それぞれだ。神が神とされるのは大勢の支持を得ているからではなく、誰かに神として信じられているからだ。

食の好みにしたって当然同じことである。大勢が支持するから美味しい食べ物なのではなく、誰かが美味しいと思えばそれは美味しいものなのだ。であれば、なにを美味しいと感じるかが各人で異なるというのは問題にはならないのだろう。

 

この理屈で行くと、私にとって美味しければそれは神の味噌汁と言ってよい。

とりあえず好きな味噌汁は

・なす(そうめんを入れるとさらに美味しい)

・きゅうり(夏場に売っている、太くて大きいものを使う)

・じゃがいも(冬場のごちそう。わかめと合わせても美味しい)

・トマト(意外と美味しい)

・かぼちゃ(甘味が味噌と合っている)

・納豆(刻む。余力があればネギも入れる。)

・もずく(当然ながらもずく酢にされていないものを使う)

・豆腐とわかめ(定番であり王道)

なめこ(ちゅるちゅるとすすって食べるのが美味しい)

・ねぎ(白ネギのこと)

である。

予想はしていたが多くなってしまった。これはどうしたものか、吟味して順位でもつけるべきだろうか。たとえば宗教によっては神の下に天使がおり、その天使にはさらに序列がついていることがある。神の味噌汁、熾天使の味噌汁、智天使の味噌汁……としたほうがいいのだろうか。

いや、そんなはずはない。味噌汁に序列などあっていいはずがない。職業に貴賤がないことと、味噌汁に序列がないことはいずれも自明だ。天使の皆さんには申し訳のないことだが、みんな味噌汁、みんな神様、それでよい。

神がいくらいたって構わない。きっと私は味噌汁の多神教徒なのだろう。

無限おむすび


小腹が空いたので作業の合間におむすびを作る。

昼に炊いた米が余っていてよかった。完全に冷え切っていない米はどこかふっくらしていて、米と米の間に若干の隙間があるのでおむすびに適している。

塩むすびでもいいが、冷蔵庫に「昆布ちりめん」があったはず。昆布のうまみとゴマやちりめんの歯ざわり、全体の甘じょっぱい味付けが白米に合う。あっという間に昆布ちりめんむすびの完成である。

うんうん、これこれ、という味。噛めば噛むほどおいしい。

 

何度も買っている昆布ちりめんだが、どこの会社が作っているんだろう。容器の裏側のラベルを見てみる。有限会社何某……九州のほうらしい。

しかし有限会社というのも改めて考えるとよく分からないネーミングである。限りが有ると書いて有限と読むわけだが、そんなことは自明の理だ。諸行無常、生々流転と言うではないか。この世のありとあらゆるものはいずれ形を失っていく。源氏も平氏も滅んだのだ。有限会社のみならず、株式会社だって持分会社だっていつかは無くなってしまう。

そもそも有限会社があるのなら、無限会社があってもいいかもしれない。資金なのか社員なのか社員食堂のお代わり回数なのか、何が無限なのかはともかくとして。

さっき有限は自明の理と書いたばかりのくせに手のひらを反すんじゃないと叱責を受けそうだが、流行りの「無限キャベツ」「無限ピーマン」のようなものだ。なにものも無限であることなどありえないのだが、それをわかった上で「無限」という言葉の力強さ、景気の良さを味わうというのも楽しい。無限キャベツをむさぼりながら、「でも、これだって限りが有るのよね、あーあ」などとぼやいていては面白くないのだ。

 

とはいえ現実には無限会社などというものがないことを考えると、有限会社の「有限」というのは「無限」の対義語ではないらしい。じゃあ、なにが有限なのか。

調べてみるとどうやら、出資者や社員数に制限があることが由来のようだ。「制限が有りますよ」から来る「有限」か。なんだ、そういうことか。名称しか知らずにいたことを思うとなにやら恥ずかしい。

 

無限会社なんてないし、有限会社の「有限」も「無限」に対するものではない。結局この世は有限のみでできているのだなあ。無限とか永遠とか永久と言ったものは人間の想像力が生み出した概念であって、実在はしていないのだ。

それが分かっていても、いっときのファンタジーに浸りたいがために人は「無限キャベツ」と名付けてみたり、「無限に食べられる」と表現してみたりするのだろう。

 

ものごとは常に有限だ。この昆布ちりめんもいつかは食べられなくなってしまう。別に会社が無くならずとも、近所のスーパーが仕入れるのを止めてしまえば一巻の終わりだ。そう思うとゆっくり、しっかりと咀嚼せずにはいられなくなるが、昆布ちりめんむすびは噛めば噛むほどおいしくなっていくのだった。

こういうのを「無限に食べられる」と表現するのが適切と言える。

 

うるわしのジャスミンティー

花の香りが好きだ。

でも、「どの花の香りが好きなんですか」と訊かれると「ウッ」となる。なんなら「ウッ」と言いながら胸の所を押さえて崩れ落ちたい。そうでもしたくなる程度には返答に困る。もちろんそんなことをした日には花の話題どころか緊急車両を呼ばれかねないが。

とにかく花の香りが大好きなのに、具体的な花の種類を挙げることができない。花って言ったら花なんですよ、花、なんかこう、落ち着く……かぐわしい香りですよ……という体たらく。

 

ドラッグストアなんかで売っている消臭剤やらボディスプレーやらに「フローラルの香り」と書いてあるけど、具体性を欠いているという点でそれらと私は大差ないんだろう。

とはいえ、「フローラルの香り」と銘打ったもの(要するに漠然とした花の香りっぽいもの)を嗅いで心惹かれた経験はほとんどない。むしろ「ウッ」となることが多い。この場合の「ウッ」は「花にしてはきつい香りじゃないか」とか「これじゃ香水だよ」のような文句の意味合いになる。

だったら私が好いているのは「なんとなくそれっぽい花の香りのようなもの」ではなくこの世に存在する花のうちどれかである、という可能性が増す。

 

で、どの花なのか。好きである以上、香りを嗅いだ経験があるはずだ。しかしそれでピンと来るなら苦労しない。

チョウチョやハチであれば今までに嗅いだ花を逐一覚えていそうなものだが、私は残念なことに人間である。脳みそに覚えさせておかねばならないことが多すぎて、花の香りに関するデータベースは非常にうすぼんやりとしている。人間の暮らしがチョウチョのそれよりも複雑である以上仕方のないことだが、こういった素朴なことをあいまいにしてしまうというのはなんだか切ないことであるし、社会が複雑化したことの弊害という気がしないでもない。

 

しかし最近になってようやくその花の正体が判明した。こんなことを引っ張ったって仕方ないのでさっさと言っておくと、それはジャスミンだったのである。

大筋はこうだ。コーヒーばかり飲んでないで紅茶を飲もうと思い立つ。買うだけ買って手を付けていなかったティーバッグを発見。トワイニングアールグレイセレクション、みたいなやつ。香りが5種類あり、そのうちの「ジャスミン アール グレイ」をなんとなく選ぶ。あつあつの「ジャスミン アール グレイ」をひと口……あっ!この香りは!これこれ!これだよ!これじゃないか!!!

という具合。もちろんこれは「ジャスミン アール グレイ」なので純然たるジャスミンティーではない。しかし紅茶の香りとは別に、ふわふわと鼻を抜けていく華やかな香り。それでいて落ち着きも兼ね備えている。人間で言うと白いワンピースをお召しになったお嬢様のようなその香りこそ、ジャスミンのものであった。

 

ジャスミン アール グレイ」をひと口、またひと口。人間だれしも飲み物を飲む瞬間には息を止めているものだが、これをもっと意識的にやってみる。息を止めてひと口、飲み込んでから鼻呼吸。喉の奥から鼻腔に向かってせり上がってくる花のお嬢様!エレガントなジャスミンの香り。

①息を止めて飲む、②鼻呼吸で香りを楽しむ。このふたつはしっかりワンセットでなくてはならない。間違っても②を「口呼吸をする」だの「喋りはじめる」だのにしてはいけない。

ああ、素晴らしい。私の好きな花はジャスミンだったのだ。これでもう、「どの花の香りが好きなんですか」に臆さずに済む。そしてその香りを紅茶として手軽に楽しめるのだ。優雅かつ上品、うるわしのジャスミンティー。

 

せっかくなのでジャスミン精油を手に入れようと試みた。このうるわしい香りをもっと手軽に楽しもうと思ったのだ。しかし悲しいかな、ジャスミン精油は少々(正直少々どころではない)値が張る。これでは手軽も何もあったものではない。もっとも、花から抽出した精油は大概高いので仕方ないのだが。

ところがジャスミンティーのほうは精油と違い、値段のほうも手軽なことが多い。ああ、うるわしのジャスミンティー。私めのような庶民にもたおやかに微笑むご令嬢、まるでノブレス・オブリージュ

しばらくはジャスミンティーに凝る日々が続きそうだ。

甲子園の季節

季節と言えば夏。夏と言えば甲子園。よって今は甲子園の季節である。

 

普段はニュース以外のテレビを観ないが甲子園とあっては話が別。強い日差し、大勢入った観客席、日焼けした高校球児。(たいていの場合、「児」という文字を使うのが申し訳ないほど大人びた顔つきと体格をしている。どこの高校だったか忘れたが、若い監督かと思いきや主将の三年生でたまげたことがある)時折熱の入る実況とわりかしニュートラルな解説。バットに白球が当たる音の広がり、歓声に拍手、各校の校歌。それらにまぎれて聞こえてくる吹奏楽。私は洋楽が好きなので、歓声や実況に混じってqueendeep purpleが聞こえてくるとそれだけでうれしい。

どっちが勝つやら分からない緊迫の接戦などでsmoke on the waterが聞こえた時は尚更であり、あの曲調に乗せられる形であたかも関係者であるかのようにどぎまぎしつつ画面を見てしまう。queenにせよdeep purpleにせよ、自分たちの曲が遠い国の高校野球の大会で頻繁に用いられているとはつゆほども知らないだろうが。

 

そんなわけで甲子園のことを目にも耳にも楽しい夏の風物詩、と思っているが、実際のところ野球に造詣が深いわけではない。運動が得意ということもない。むしろ万年運動音痴で集団で行う競技などもってのほか、という性格である。

とはいえ甲子園は好きだ。運動好きでも野球好きでもなく、普段はスポーツ観戦の趣味もなく、画面の向こうの高校球児が親戚の子などどいう特別の事情もない。でも、好きだ。

でも、ではなく「だから」なのかもしれない。日頃の自分と一切接点のない事柄だからこそ非日常のイベントとして楽しんでいるのだろう。これで少しでも野球をやったこと、というよりやらされたことがあるならば野球に対してなにかしら嫌な思い出が形成され、夏にテレビで甲子園を観ようとは思うまい。

自分ではしないし、できないし、しようとも思わないこと。そう書いてしまうとなんだが寂しいような気もするが、そういう大きな隔たりがあってこその楽しみ方というのもある。

 

ところでふと思ったが、甲子園で乱闘騒ぎってあるんだろうか。

べつだん詳しいわけではないので見落としているだけの可能性もあるが、毎年観ていてもそんな光景が画面に映った記憶はない。

「お~っとこれはデッドボールです!バッター、ピッチャーに詰め寄ります!」

「○○工業××監督、審判の制止を振り切ってマウンドに向かっています」

「△△大付属□□監督も出てきましたね。審判になにやら怒鳴っているようです」

「あーっ!!バッターがピッチャーを殴ってしまいました!ベンチから一斉に両校の選手が走り出てきます!乱闘です!これは乱闘です!」

「これはいけませんねえ」

なんて、見たことがないのである。

もちろんそんなものあって欲しくはない。ないならないでいいのだが、気になったので検索してみた。「甲子園 乱闘」という検索ワード自体がすでに違和感の塊である。しかし案の定めぼしい結果は出てこない。過去に一度だけあったとかなかったとか、その程度である。

やはり高校球児はしっかりしているのだなあ。大人びた様子なだけはある。高野連という組織もなにやら厳しそうなイメージだし、乱闘なんて起こりえないのかもしれない。

 

しかしそうなってくると、プロ野球で乱闘が起きるのがおかしな話に思えてくる。彼らは高校生よりよほど年上なのだから、大人びているのではなく大人なのだ。それなのに乱闘と言えば通常プロ野球で起こったものを指す。高校生だってやらないのに、いい大人がなぜそんなことをするのか。これだから大人って醜い!大人なんて大っ嫌い!

……と、思春期の子供のような締め方をするのも性に合わない。乱闘にもそれはそれで事情があるに違いない。

私よりは多少野球に詳しい人間に訊いてみたところ、「プロはデッドボールなんか投げないってのが当たり前なんだよ」とのこと。であるなら、デッドボールで腹が立つのは仕方ないことかもしれない。プロのくせに何してくれてんだ!ふざけんなよ!痛いじゃねえか!という感じだろうか。

それに彼らはプロである以上、野球をすることでお金を得ている。自身の成績が収入に直結するというのに、デッドボールなどやられた日には腹も立つだろう。そのせいで怪我をした日には収入どころか選手生命だって危ぶまれるのだから。

高校球児の甲子園もシビアな勝負の世界だろうが、プロ野球選手もまた人生をかけて勝負をしているのだなあ。私には全く縁のない世界であるが、だからこそ純粋に「すごいな、すごいな」と思える。

 

とは言いつつも、乱闘による怪我のリスクはデッドボールのそれと同じくらい高いのでは……という気がしないでもない。乱闘に持ち込めるということはデッドボールで怪我をせずに済んでいるのだろうから、それ以上積極的に怪我をしに行こうとせずともよいのでは……。

野球に縁遠い人間なので、ついついそんなことを考えてしまう。